現在の条件比較だけでは見えないもの
転職の判断は多くの場合、報酬・役職・業務内容の「現在値」の比較に終始します。しかしキャリアは一回の意思決定で完結するものではなく、その後に続く複数の分岐を含んだ連鎖的な選択プロセスです。ある選択が3年後・5年後に開く選択肢の幅と質——これが金融理論でいうリアルオプションの考え方であり、キャリアにおいても同様の構造が成立します。
たとえば、安定した事業会社の経営企画部長のポジションと、成長フェーズにある企業のCOOポジションを比較する場面を考えてみます。前者は報酬や安定性で優位かもしれませんが、後者はIPOプロセスや急速な組織拡大といった経験を通じて、その後のキャリアにおいて選択可能なポジションの幅を大きく広げる可能性があります。現在の条件表を並べるだけでは、この差は見えてきません。同様に、ある業界で高い報酬を得ているポジションであっても、その経験が別の業界やファンクションへの移動を事実上閉ざしてしまうのであれば、オプション価値の観点からは疑問が残ります。
オプション価値を左右する3つの軸
キャリアにおけるオプション価値は、主に3つの要素で構成されます。
第一に、スキルの転用可能性です。特定業界の深い専門性は業界内で高い価値を持ちますが、業界横断の移動時にはディスカウントされることがあります。一方で事業開発やP/L管理、組織設計といった汎用的な経営スキルは、複数の業界・職種への移動オプションを生みます。どちらが優れているかという話ではなく、自分のキャリアがどの方向に分岐し得るかを理解したうえで意図的に選択しているかが重要です。
第二に、ネットワークの拡張性です。ある業界のトップ層と接点を持つポジションに就くことは、その業界内での将来のキャリアオプションを大幅に広げます。エグゼクティブサーチの現場では、実力が同等の候補者間で最終的な差を生むのは、過去にどのようなステークホルダーと仕事をしてきたかという文脈であることが少なくありません。ネットワークは意図的に構築するものではありませんが、どのポジションに就くかによって接触する人脈の層は大きく変わります。
第三に、意思決定権限の蓄積です。予算規模、組織の人数、事業の範囲——こうした権限の履歴は、次のキャリアステップにおいて「どの規模のポジションに候補として認識されるか」を規定します。現在の報酬が多少高くとも、権限の範囲が限定的なポジションに長く留まることは、将来のオプション価値を目減りさせるリスクがあります。逆に、報酬面では現状維持であっても、管掌範囲が広がるポジションへの移動は、次の選択肢を増やすという点でオプション価値の積み増しとなり得ます。
「最適な選択」より「選択肢を残す選択」
「この転職は正しいか」という問いは頻繁に投げかけられます。しかし、より有効な問いは「この選択によって、3年後の自分にはどのような選択肢が残るか」です。
サーチの現場で観察されるのは、40代後半で「選択肢がない」と感じるエグゼクティブの多くが、30代後半から40代前半にかけて「当時の最適解」を選び続けた結果、オプション価値を消費し尽くしているという構造です。報酬の最大化を優先し続けた結果、特定の業界・職種に過度に特化し、環境変化に対する柔軟性を失っているケースは珍しくありません。不確実性が高い時代だからこそ、「現時点の最適解」が数年後には陳腐化するリスクを織り込む必要があります。
ここで一つ補足しておきたいのは、オプション価値の概念は「動くこと」だけに適用されるものではないという点です。サーチの現場で対話する候補者の多くは、実は「転職したい」のではなく「このままでいいのか分からない」という状態にあります。この「わからない」を急いで解消しようとして性急な転職に踏み切ることは、かえってオプション価値を毀損します。情報を集め、選択肢を可視化し、しかし「まだ動かない」と判断すること——これもオプションの温存として合理的な戦略となり得ます。