「市場価値」という単一指標は機能しない

「自分の市場価値を上げたい」——キャリアに関する相談の場で最も頻繁に聞く言葉のひとつです。しかし、この言葉は一見もっともらしいものの、ほとんど何も言っていません。どの市場での価値か、誰にとっての価値か、どの時間軸で測る価値か。これらが定義されないまま「上げたい」と語ることは、目的地を決めずに「速く走りたい」と言っているのに近いかもしれません。

転職市場においてエグゼクティブの評価は、株式市場のように一元的な価格がつくものではありません。同じ経歴の人物であっても、ある企業にとっては極めて高い評価を受け、別の企業にとってはほとんど関心を持たれないということが日常的に起きます。「市場価値」という単一のスカラー値は、実態として存在しないといえます。では、代わりに何を測るべきでしょうか。

指標1:ポジション適合性の幅

第一の指標は、「現時点で自分が候補として成立するポジションの数と質」です。エグゼクティブサーチにおいてロングリストに載り、ショートリストに残り、最終的にオファーに至る可能性があるポジションがどれだけ存在するか。この幅は業界経験、機能領域の専門性、マネジメントの規模、そして経営課題との適合度によって決まります。

重要なのは、この幅は「広ければ良い」というものではないという点です。高年収帯のエグゼクティブポジションに絞れば、候補として成立する範囲は必然的に狭くなります。問題は、その狭さが意図的なものか、気づかぬうちに選択肢を失った結果なのかという点です。自分のポジション適合性の幅を客観的に把握している人は、実はそれほど多くありません。

指標2:希少性のポジショニング

第二の指標は、「自分と同等のプロファイルを持つ人材が市場にどれだけ存在するか」です。経済学の基本に立ち返れば、価値は需要と供給の関数です。どれだけ優秀であっても、同じスキルセットを持つ人材が大量に存在すれば、一人あたりの交渉力は低下します。

サーチの現場で観察されるのは、希少性が高いプロファイルには特定のパターンがあるということです。たとえば、成熟産業での深い業界知識を持ちながら、デジタルトランスフォーメーションのプロジェクトを複数率いた経験を持つ人材。あるいは、日本企業でのマネジメント経験と海外拠点での事業責任を併せ持つ人材。こうした「複数の軸の交差点」に位置するプロファイルは代替が効きにくく、結果的に高い評価を受けやすい傾向があります。

単一の軸で深さを追求するだけでは、同じ軸の上位者との競争に巻き込まれます。複数の軸を意図的に組み合わせることで、競争の構造そのものを変えることが可能になります。

指標3:レファレンスの厚み

第三の指標は、見落とされがちですが極めて実効性が高いものです。「自分の仕事ぶりを具体的に語れる第三者がどれだけ存在するか」です。

  • 過去の上司や取締役クラスで、候補者の経営判断の質を具体的に評価できる人物
  • 協業先の経営層で、プロジェクトの成果を客観的に語れる人物
  • 部下や同僚で、リーダーシップのスタイルと組織への影響を語れる人物

エグゼクティブ採用の最終段階では、レファレンスチェックが形式的なものではなく、実質的な意思決定材料として機能することが多くあります。具体的なエピソードとともに候補者を語れる人物の存在は、履歴書上のスペック以上の説得力を持ちます。この厚みは一朝一夕には築けず、日々の業務における信頼の蓄積によって長い時間をかけて形成されるものです。

この3つの指標は、いずれも自分ひとりでは正確に測定しにくいという共通点を持っています。客観的な測定には、市場側の情報が必要です。