「動くこと」を前提とした市場構造
転職市場を取り巻く情報のほぼすべてが、「動くこと」を前提に設計されています。転職サイトは求人を掲載し、エージェントは候補者に案件を紹介し、キャリアメディアは「市場価値を高める転職術」を発信します。この構造の中で「動かない」という選択は、積極的な判断ではなく「決断できなかった結果」として暗黙のうちに位置づけられています。
しかし、サーチの現場で観察される実態はそう単純ではありません。30代後半から40代のシニア層が「今は動かない」と判断するとき、そこには市場環境の見極め、家族の状況、組織内での交渉余地、そして自身のキャリアフェーズに対する冷静な認識が複合的に作用しています。これは消極的な先送りではなく、複数の変数を勘案した上での合理的な意思決定であることが少なくありません。
「動かなくてよい」を言うインセンティブの不在
この構造をさらに非対称にしているのは、転職市場のビジネスモデルです。成功報酬型の転職エージェント、サーチファームのいずれにおいても、収益は候補者が「動いた」場合にのみ発生します。「今は動かないほうがよい」という助言は、経済合理性の観点からは自社の売上を放棄する行為に等しいといえます。
結果として、候補者が「このままでいいのか不安だ」と相談した際に返ってくるのは、多くの場合「まずは市場を見てみましょう」という提案です。これ自体は悪意ある誘導ではありません。しかし、「動かなくてよい」という回答が構造的に生まれにくい仕組みの中にいるという事実は、意思決定者として認識しておく価値があります。
興味深いのは、「動かなくていい」という許可が与えられたとき、候補者の内面に起きる変化です。外圧から解放された状態で初めて、自分自身のキャリアに対する本質的な問いと向き合い始めるケースが観察されます。「動くか動かないか」を迫られている限り、思考はその二択の枠内に閉じ込められます。その枠が外れたとき、別の次元の選択肢が視界に入ることがあります。
「このままでいいのか不安」の構造分析
「このままでいいのか」という不安は、キャリアの転機において最も普遍的な感情のひとつです。しかし、この感情は「転職したい」という意思とは等価ではありません。多くの場合、その実態は「現在の選択が合理的かどうかを確認する手段がない」という情報の欠如に起因しています。
転職を実行したい人と、現状を続けてよいかどうかの判断材料がほしい人は、まったく異なるニーズを持っています。しかし、現在の転職市場は前者に対してのみサービスを提供する構造になっており、後者——「動かなくてよいなら、それで構わない」という層——に対して、「現状維持が合理的である」という根拠を提示する機能は、市場のどこにも実装されていません。
この空白は、候補者にとって実質的なコストを生んでいます。現状維持の合理性を確認できないがゆえに、不必要な転職活動に時間と精神的リソースを投じたり、逆に漠然とした不安を抱えたまま何も行動しないという両極端に振れやすくなります。
二項対立の外側にある意思決定
「動くか、動かないか」。この問いの立て方自体に構造的な問題があります。キャリアの意思決定は、特定の時点における二者択一ではなく、時間軸の中で複数の選択肢が出入りする連続的なプロセスです。「今は動かないが、条件が変われば再考する」「情報は集めるが、今期中はアクションを取らない」——こうした段階的な態度は、二項対立のフレームでは「決められない人」と映りますが、実際には最も成熟した意思決定の形態であることが少なくありません。
「動かない」と決めた瞬間に、視界が変わることがあります。外部の機会ではなく、今いる場所で何ができるかに意識が向きます。その状態で初めて見える選択肢が、二項対立の問いの中では永遠に視界に入らなかったものであることは、珍しくありません。