カウンターオファーは「引き留め」ではなく「時間稼ぎ」であることが多い

転職先からオファーを受諾し、現職に退職の意思を伝えた段階で提示されるカウンターオファー。これを受けるか否かの判断は、エグゼクティブのキャリアにおいて最も感情的になりやすい局面の一つです。しかし、サーチの現場で蓄積された観察に基づけば、カウンターオファーを受け入れた候補者の多くが、12か月から18か月以内に再び転職市場に戻ってくるという現実があります。この傾向は偶然ではなく、カウンターオファーの構造そのものに起因する問題と考えられます。

カウンターオファーの典型的なパターン

カウンターオファーには、いくつかの定型的なパターンが存在します。

最も一般的なのは報酬の引き上げです。現年収に対して10%から20%程度の上乗せを提示し、「あなたの価値を正当に評価できていなかった」という言葉が添えられます。しかしここには構造的な問題があります。退職を申し出るまで適正な評価がなされていなかったという事実は、その組織の評価・報酬制度が機能していないことの証左であり、カウンターオファーによる一時的な調整がその構造を変えるわけではありません。次の評価サイクルでは、「すでに上乗せ分を受け取っている」という認識が作用し、昇給やボーナスの配分で調整されることも珍しくありません。

第二のパターンは、役職やタイトルの変更です。「来期から執行役員に昇格させる予定だった」「新設ポジションへの異動を検討していた」といった形で、将来の昇進を前倒しで約束するものです。このパターンの問題は、口頭での約束が実際に履行されるかどうかの不確実性にあります。取締役会の承認が必要な人事が、退職交渉の場で確約されることの不自然さには、注意を向ける必要があります。

第三のパターンは、業務内容や直属の上司の変更を提示するものです。「あなたが不満に感じていた業務領域から外す」「別の事業部への異動を手配する」といった提案がこれに当たります。しかし、転職を考えるに至った根本的な原因が組織の文化や経営の方向性にある場合、配置転換は表層的な対処にすぎず、本質的な問題の解決にはなりません。

カウンターオファー受諾後に起きること

カウンターオファーを受け入れた場合、中長期的に作用する影響がいくつかあります。

まず、ロイヤリティへの疑念が残ります。退職の意思を表明したという事実は、上司や経営陣の記憶から消えることはありません。次のリストラクチャリングや組織再編の際に、「一度辞めようとした人物」というラベルが意思決定に影響を与えるリスクがあります。重要なプロジェクトへのアサインや、機密性の高い情報へのアクセスにおいて、微妙な距離感が生まれることもあります。

次に、社内での関係性の変化があります。カウンターオファーによる報酬の引き上げや昇進は、周囲の同僚や部下にも感知されます。「退職をちらつかせたら条件が良くなった」という認識が広がることは、チーム内のダイナミクスを損なう可能性があります。特にエグゼクティブ層においては、こうしたシグナルが組織全体のモラルに影響を及ぼすことがあります。

さらに、転職市場での信用問題があります。オファーを受諾した後にカウンターオファーで翻意したという情報は、転職先企業とサーチファームの双方に記録されます。次に転職を検討する際、「この候補者は最終段階で翻意する可能性がある」というリスク因子として扱われ、プロセスの優先度が下がることがあります。

カウンターオファーの受諾が合理的になる局面

公平を期して言えば、カウンターオファーの受諾が構造的に合理的な局面もゼロではありません。転職の動機が純粋に報酬水準のみであり、業務内容・組織文化・成長機会に不満がない場合、報酬の是正はそのまま問題の解消になり得ます。また、転職検討のプロセスを経て「自分が本当に求めていたのは環境の変化ではなく、現職における承認だった」と気づくケースも、サーチの現場では少数ながら観察されます。

ただし、その場合でも「退職を申し出るまで是正されなかったのはなぜか」という問いは残ります。評価制度が能動的に機能していない組織で、退職という圧力によってのみ条件が改善される構造は、次の不満が発生した際にも同じパターンを繰り返す蓋然性が高いと考えられます。

判断の軸を「条件」から「構造」に移す

カウンターオファーに直面した際の本質的な問いは、提示された条件の魅力ではなく、そもそも転職を考えるに至った構造的な理由が解消されるかどうかです。多くのエグゼクティブが転職を考える真の理由——成長機会の頭打ち、経営方針への不一致、組織文化との摩擦——は、カウンターオファーでは根本的に解消されない性質のものです。

退職交渉の場は感情が高まりやすく、現職の上司から直接「残ってほしい」と言われることの心理的インパクトは大きいものです。しかし、その感情が冷めた後に残るのは、変わらない組織構造と、一度は離れようとした自分自身の判断への疑問です。カウンターオファーを検討する時間は、条件表を比較する時間ではなく、最初に転職を考えたときの自分に立ち戻る時間として使うほうが、結果的に後悔の少ない判断につながることが多いと考えられます。