競合オファーは「武器」にも「自傷」にもなる

複数のオファーを手にした候補者が、それを交渉材料として使おうとする場面は珍しくありません。しかし、サーチの現場で繰り返し観察されるのは、競合オファーの提示が交渉力を高めるケースと、かえって候補者の評価を毀損するケースが明確に分かれるという事実です。この差を生むのは、オファーの内容そのものではなく、それをどのような文脈で、どのタイミングで、どのように伝えるかという構造的な要素にあります。

競合オファーが効果的に機能するのは、採用側が「この候補者は市場で高く評価されている」という確認を得る場合です。つまり、候補者の市場価値を客観的に裏づける情報として作用するときに限られます。一方、「条件を吊り上げるための道具」として透けて見える使い方は、採用側の意思決定者——特にCxOや取締役クラス——に対して、候補者の動機に関する根本的な疑念を生じさせます。

効果的に機能する3つの条件

競合オファーが交渉レバレッジとして正しく機能するためには、いくつかの条件が揃う必要があります。

第一に、候補者がそのポジションに対して genuine な関心を持っていることが伝わっている状態であることです。「御社が第一志望だが、他のプロセスも進んでいる」という文脈が自然に共有されている場合、競合オファーの存在は候補者の市場価値の証明として機能します。逆に、そうした関心の表明がないまま突然オファー条件を突きつけると、「報酬だけで動く人材」というレッテルが貼られるリスクが高くなります。

第二に、タイミングの問題があります。採用側が候補者を「採りたい」と確信した段階——具体的にはオファー提示後やオファー条件の詰めの段階——であれば、競合情報は条件改善の合理的な根拠になります。しかし、面接プロセスの途中段階でこれを持ち出すと、「まだ評価が固まっていない段階で交渉を仕掛けてくる人物」という印象を与え、プロセスそのものが打ち切られることがあります。

第三に、具体的すぎる開示を避けることです。「他社からいくらのオファーが出ている」と数字を明示するよりも、「他のプロセスも最終段階にあり、条件面でも魅力的な提示を受けている」程度の抽象度に留めるほうが、交渉の余地を広く保てます。数字を出した瞬間、交渉は「その金額を上回るかどうか」という単純な比較に矮小化され、候補者自身もその数字に縛られることになります。

逆効果になる典型的なパターン

競合オファーの使い方で最も多い失敗は、存在しないオファーを匂わせるケースです。エグゼクティブ採用の市場は想像以上に狭いものです。サーチファーム同士の情報交換、業界内のネットワーク、リファレンスチェックの過程で、候補者が実際にどのプロセスに参加しているかは高い確度で把握されています。虚偽の競合オファーは、発覚した時点で候補者の信頼性を決定的に損ないます。

もう一つの失敗パターンは、競合オファーを「最後通牒」として使うケースです。「今週中に条件を改善していただけなければ、他社に行く」という伝え方は、採用側にとっては脅迫に近い印象を与えます。仮にそれで条件が改善されたとしても、入社後の関係性に影を落とすことがあります。エグゼクティブ採用においては、入社後に採用を決裁した経営陣との協働が不可避であり、その関係の起点に不信感が残ることの代償は小さくありません。

交渉の構造を理解したうえで

採用とは本質的に「この人と一緒に働きたいか」という判断であり、交渉プロセスそのものが候補者の評価対象です。条件改善を引き出すことに成功しても、そのプロセスで信頼残高を消費していれば、入社後の立ち上がりに見えないハンディキャップを背負うことになります。

オファーの数字だけでなく、その数字を得るまでの過程に何を残したか。エグゼクティブ採用の市場が狭い以上、交渉の評判はキャリアの長い時間軸で静かに効いてきます。